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一方、ポーランド軍は赤軍の攻勢の前に、先制攻撃を行うことを計画し、4月から進撃を開始した。ポーランド第3軍はペトリューラ軍と共同し、5月7日(または5月6日)にキエフを占領した。しかしながら赤軍は直ちに反撃を行った。北部においては赤軍の反撃は成功し、ポーランド第1軍は大きく後退した。5月24日に、南部のポーランド軍もプジョーンヌイ率いる第1騎兵軍のコサックの攻撃を受けた。6月10日頃までにポーランド軍の敗退は決定的になり、ペトリューラも6月13日(または6月12日)にキエフを放棄して撤退した。
一方、ポーランド軍も撤退を続けたが、戦略予備部隊の不足や重砲の不足とあいまって、整然とした撤退とはならず、壊走に近いものとなった。7月にも、大規模な戦闘があり、激しい戦闘の末、赤軍が勝利し、ポーランド軍はさらに撤退することとなった。ポーランド軍は第一次世界大戦時のドイツ軍の塹壕跡を利用して防御を行ったりしたが、兵力・錬度不足により赤軍に突破された。7月14日にはビリニュスを、7月19日にはグロドノを赤軍が占領した。赤軍の進撃速度は速く、1日に20マイルになることもあった。8月1日には、ブレスト・リトフスクを赤軍第16軍が占領したが、そこのブーク川においてポーランド第4軍は防戦を行い、赤軍を一週間に渡り足止めした。トゥハチェフスキー率いる赤軍の北西正面軍は、8月2日にワルシャワから60マイルの地点に到達している。ハリチナー地方においても赤軍の攻勢でリヴォフなどで戦闘が行われていた。リヴィウ近郊においてポーランド軍は反撃に成功し、赤軍の進撃を足止めした。これを受けて、赤軍は利用可能な部隊をワルシャワ攻撃に集中させることとした。
ポーランド国内のドイツ系住民(大部分は、ドイツから割譲された地域に居住)は、ポーランド軍に対して一貫して非協力的であった。特に、ダンツィヒでは、ほとんどがドイツ人からなる港湾労働者たちが、イギリス・フランス両国から流入する物資のポーランド国内への輸送を妨害・遅延させることに成功した。 物資の供給が滞るようになったことで、ポーランド軍は苦境に立たされていった。
ポーランドの首相S.グラブスキ(S.Grabski)は、7月1日、国家元首、議会(セイム)議長、首相、閣僚3人、軍代表3人、大使10人から成る国防会議に全権を委任した。ポーランド政府の要請により西側の外交官が始めた予備交渉は、ソ連側の拒否にあった。グラブスキ内閣は総辞職し、W.ウィトス(W. Witos)が新首相となった。
ソ連は、7月28日、占領したポーランド地域に共産政権であるポーランド臨時革命委員会(Tymczasowy Komitet Rewolucyjny Polski)を樹立したが、住民の支持を受けなかったために、成功はしなかった。
リトアニアは反ポーランドの姿勢であり、ソ連の圧力と、ビリニュスの確保の目的のために1919年7月にソ連側で参戦した。
フランスは軍事顧問団を派遣するなど、ポーランドを支援していた。1920年にポーランドが危機に陥ると、フランスとイギリスはさらにウェイガン将軍を軍事顧問として派遣した。
1920年8月の勢力範囲1920年8月10日より、赤軍のコサック部隊によるワルシャワ包囲のための行動が外国為替
された。トゥハチェフスキー率いる赤軍北西正面軍は、ワルシャワの北部にポーランド軍部隊が少ないことから、主力を北部に集中させ、北西正面軍の左翼は兵力を薄くし、プジョーンヌイの第一騎兵軍にカバーしてもらう心積もりであった。赤軍司令部は、トゥハチェフスキーの要請に従い、第一騎兵軍に北上するように命じたものの、北西正FX
と南西正面軍の指揮官間の不仲や南西正面軍政治顧問のスターリンの思惑により、第一騎兵軍はワルシャワではなく、リヴィフの攻略を継続することとなった。
ヴワディスワフ・シコルスキ将軍率いるポーランド第5軍は、8月14日にワルシャワの北にあるモドリンから出撃し、一日あたり30キロ以上の迅速な機動を行い、赤軍の攻撃を足止めした。その間に、ユゼフ・ピウスツキ指揮下の5個歩兵師団、1個騎兵旅団から成る機動部隊は、第1騎兵軍がカバーしなかったことから生じた、赤軍の北西正面軍と南西正面軍との間の間隙に進撃し、北西正面軍の包囲にかかった。
包囲を恐れたトゥハチェフスキーは軍に撤退を命じた。赤軍は打撃を受け、ブーク川の東まで撤退した。ポーランド側はこの勝利を、「ヴィスワ川の奇跡」として喧伝した。
8月17日には、赤軍のリヴィウへの進撃が停止した。8月29日から31日にかけて、第一騎兵軍もリヴィウの北、ザモシュチュでポーランド騎兵部隊と戦闘を行い、敗退する。9月6日の戦闘でも敗退し、東方のヴラジミルボルィンスキ方向へ撤退した。
トゥハチェフスキーは赤軍の部隊を再編成し、9月にはグロドノ付近に戦線を構築することに成功した。ポーランド軍はネマン川付近の戦闘で赤軍を撃破し、さらに東方への進撃を続けた。
10月半ばに至り、ポーランドがベラルーシの首都ミンスク近郊まで進撃するにいたり、ソビエト政府は和平を提案、10月12日に停戦条約であるリガ条約に調印、18日に発効した。
1920年以降の国境ポーランド政府は、FX
とウクライナ・ソビエト政府との間にリガ条約を締結したが、これはポーランド政府がウクライナ・ソビエト政府をウクライナの代表政府として認めたということを意味するものであった。これは、ペトリューラがポーランドとの共同戦線を張る際に結んだ「ウクライナ民族共和国をウクライナを代表する唯一の政府として認める」という協定に一方的に違反したものであった。ここにおいて、ウクライナ中央ラーダから続くウクライナ民族共和国は終焉を迎えた。なお、リガ条約当時ロシアとウクライナには独立してソビエト政府が存在していた。当時ポーランドに亡命していたペトリューラは、この裏切りのためパリへ亡命を余儀なくされたが、その後、1924年同地でソ連のスパイによって暗殺された。
ソビエト政府は軍事的な敗北をしたこともあって、領土面で大幅にポーランドに譲歩し、ベラルーシおよびウクライナの西部(ガリツィア)はポーランド領となった。ポーランドも消耗していたため、和平を結ぶことには同意していた。しかし、これは個別和平を結ばないとする、ウクライナ人勢力との軍事同盟に反するものであった。このことは、後にソ連のプロパガンダに利用されることとなった。
この戦争を見聞したFX
などは、次の戦争の形態を正確に予測するに至った。ポーランド政府は、この戦争の経験から騎兵部隊を重要視し、その練成を積極的に行うこととなった。
なお、約20年後の第二次世界大戦の結果、ポーランドの東側領土は大幅に縮小し、一次大戦後に得た領土はすべてソ連領(ウクライナ・ソビエト社会主義共和国及び白ロシア・ソビエト社会主義共和国領)となり、ソ連崩壊後は独立したベラルーシやウクライナ領となっている。しかしながら、ポーランドとロシアによる分割統治により、ウクライナには2005年現在も旧ポーランド領の西ウクライナの独立主義や民族主義などの問題が残されている。また、一次大戦後は独立を得たリトアニア、ラトヴィア、エストニアも二次大戦時にソ連に併合され、約60年後に他共和国に先駆けてソ連より独立するまでソ連政府の支配を受けることとなった。
アイルランド内戦(The Irish Civil War, 1922年6月 ? 1923年4月)は、1921年12月6日に締結された英愛条約とアイルランド自由国の建国を巡ってアイルランドで行われた内戦。アイルランド自由国は今日のアイルランド共和国の前身である。反対者たちはアイルランド自由国がイギリス領内の自治国に留まっていること、そして北アイルランド6州が自由国に含まれていない事に反発していた。この内戦による犠牲者はアイルランド独立戦争のそれを上回っている。内戦で取り上げられた問題は今日の北アイルランド問題の根幹をなしており、その傷はアイルランドの政治にも大きな影響を与えることになった。
英愛条約はアイルランドの分離独立派(アイルランド共和国 (暫定政府)として活動した)とイギリス政府の間で発生したアイルランド独立戦争の講和条約として締結された。この条約によりアイルランドには自治が認められ、アイルランド島のほぼ全域を支配しアイルランド警察とアイルランド国防軍を設立することになった。しかし多くのアイルランド民族主義者が望んだ共和国建国は行われず、イギリス国王を元首とするイギリス帝国の傘下に留まることになった。さらに条約では新たに設けられるアイルランド議会の議員は自由国憲法およびイギリス国王に忠誠を誓うこととされていた。自由国は西部・南部アイルランドの26州で構成され、アルスターの6州は北アイルランドとしてイギリス統治下に残された。いくつかの港はイギリス海軍の管理が続く事になった。これらの内容にも関わらず、条約を締結した独立戦争のアイルランド側指導者マイケル・コリンズは、この条約について"全ての国々が望む最終的な自由ではないが、それを実現する可能性が与えられた"と述べている。後に彼の政敵によってこの言葉は証明され、自由国はアイルランド共和国となりイギリスからの完全独立を達成している。しかし1922年当時には多くの反英活動家が、条約を認めてはイギリスからの独立は永久に訪れないと考えていた。